待降節と四旬節 C 年 グイノ・ジェラール神父の説教
C 年
2015年〜2016年
待降節 と 四旬節
待降節第1主日
待降節第2主日
待降節第3主日
待降節第4主日
主の誕生(夜半)
四旬節第1主日
四旬節第2主日
四旬節第3主日
四旬節第4主日
四旬節第5主日
枝の主日
待降節第1主日C年 2015年11月29日 グイノ・ジェラール神父
エレミヤ 33,14-16 1テサロニケ3,12-4,2 ルカ21,23-28、34-36
ご自分の再臨について語るために、今日の待降節の第1の日曜日に当たって、イエスは太陽、月、星の中にある徴(しるし)について話すのです。 しかし、この説明は私たちの日常生活からかなり離れているのではないでしょうか。 古代時代には、人々にとって天体の星は和解させるべき恐ろしい神々でした。 彼らを礼拝する傾向を持っていたイスラエルの民に、預言者たちは「この偽物の神々は惨めに滅ぼされるでしょう」と、預言しました。 天体の星が、私たちが礼拝する偶像でなくても、これらと等しい他の偶像を持っていても、それらもいつか無残に消えるでしょう。 大切なことは、父なる神の味方であることだと、イエスは教えています。 この神こそ誰をも騙さずに私たちを救う神ですから。
神によって、愛され守られていることを知ることは、喜びと平和と希望の泉です。 「身を起こして頭を上げなさい。 あなたがたの解放の時が近いからだ」と、イエスは勧めています。 そこで教会は、私たちの喜びを増すために、また私たちの希望に強い関心を与えるために、慈しみの特別聖年を真心から歓迎するように招きます。 聖パウロは既にテサロニケ教会の信徒たちにそれを提案していました。 「主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように」と。
さらに預言者エレミヤの言葉も思い起こしましょう。 都エルサレムが破壊されイスラエルの民がバビロンへ追放された時に、エレミヤは「主はわれらの救い」と叫びます。 言い換えれば、エレミヤは「命は死と失敗よりも強いです」と、皆に信じさせたいのです。 なぜなら、神は愛と慈しみの神であり、絶対にご自分の民を見捨てないからです。 もし、私たちが自分の心と目を神に注ぐなら、私たちは何も恐れることがありません。 ですから、希望の道を歩みましょう。 私たちの身を起こさせ、頭を上げさせる方に揺るぎない信頼を示しましょう。
目を覚ましてイエスが提案しているように、心が鈍くならないように祈りなさい。 祈りによって、起こる全ての出来事を私たちは違った風に見、判断することが出来ます。 祈りによって、光の内に置かれても、暗闇の内に置かれても、神としっかりと結び合うことが出来るのです。 祈りは期待している私たちの心を守り、赦しと慈しみを現わす力となります。 祈りのお蔭で私たちは自分自身の不幸な状態について自分を気の毒に思うことを防ぐのです。
今日から始まる待降節の期間は、イエスの再臨、またイエスの誕生は「祝福された日であり、大きな喜びの日」でもあります。 天と地は一致してその日を喜ぶでしょう。 ですから、私たちの間にあるイエスの現存を待たずに祝いながら、喜びの内に彼の言葉を受け止め、信仰の内に彼の御体と御血を拝領しましょう。 それによって、私たちもキリストと共に「父なる神の慈しみのみ顔」となりましょう。 アーメン
待降節第2主日C年 2015 年12月6日 グイノ・ジェラール神父
バルク 5,1-9 フィリピ 1,4-6,8-11 ルカ 3,1-6
ただ一つの短い文章によって聖ルカは、イエスの時代の政治的そして宗教的な支配者たちすべてを紹介しました。 そのすぐ後に、当時の有名な統治者に対してコントラストを強くするために、砂漠で暮らしている人を紹介します。 ザカリアの子である洗礼者ヨハネは、聞く耳のある人々に神の言葉を宣べ伝えます。 この神の言葉とは、まもなく洗礼者ヨハネの洗礼を受けるために来られるイエス自身です。
「主の道を整えることは」洗礼者ヨハネの使命だと、聖ルカは明確に教えています。 つまり、洗礼者ヨハネはユダヤ人と異邦人に、そして政治的あるいは宗教的な責任を持つ人々に、メシアの到来を告げ知らせなければなりません。 すべての人、即ちローマ帝国の偉大な人々も、目立たない国民もキリストの到来に関係があるからです。 洗礼者ヨハネのメッセージはあらゆる時代のすべての人にも関係しています。 なぜなら「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」と洗礼者ヨハネは約束しますから。
神のみ言葉がイエスにおいて肉となったので(参照:ヨハネ1章)、イザヤの預言が実現されました。 これからは、神のいつくしみは人間の歴史を「救いの歴史」へと変化させていきます。 この救いは人間の顔を持っています。それはイエス・キリストの顔です。 ルカの福音によると、イエスは数週間後ナザレの会堂で、「イザヤの書」を朗読してから 「この聖書の言葉は、今日、実現した」(ルカ4,21)と言って、聞いた人々を驚かせます。
砂漠の中で造るべき道のイメージとシンボルを利用して、洗礼者ヨハネは神の救いについて話していました。 こんにち、教皇フランシスコは「神のいつくしみ」を受けることによって神の救いを私たちに提案します。 イエスは「父なる神のいつくしみのみ顔」だと教皇フランシスコは洗礼者ヨハネと同じように宣べ伝えます。 ですから、洗礼者ヨハネの時代の人々と同じように私たちも、神と私たちの間に出会いや和解や分かち合いと深い喜びの絆を結び合うように召されています。
神を信じる人にとっては「道」のイメージは意味の分かり易いものです。 私たちは既に目的の場所に辿り着いたのではなく、むしろまだ救いの道を歩み続けていることを思い起こさせます。 キリスト者は足踏みが出来ません。 キリスト者は目覚めていて、忍耐強く待ち望む人であり、しかも来たるべき救いを目指してずっと歩く人です。 地上での巡礼の間に、神は色々な賜物で私たちを満たします。 それは私たちが「軽蔑の谷」を埋めるため、「高慢と無関心の山」を低くするため、もう福音的ではない「曲解された考え」を真っ直ぐにするためです。
「神の言葉はわたしたちの道の光、私たちの足の灯」(詩編119,105)と、詩編が教えています。 神の言葉は私たちに深い淵を乗り越える力、高い山に登る勇気、真っ直ぐに歩く知恵を豊かに与えます。 神を探し求め、神に揺るぎない信頼を示すために神の言葉は私たちを助けます。
いつくしみ深く恵みに溢れる神は、私たちを救うために来られます。 私たちはこの出来事の証人です。 ですから、預言者イザヤと洗礼者ヨハネと共に、私たちも「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」と宣言し続けます。 従って、この待降節の時期に当たって、神に向かっている私たちの人生によって、周りの人々に平和と喜びと和解の恵みをもたらしましょう。 ミサ祭儀の時、特に神は私たちの「悲しみと不幸の衣を脱がせてから、ご自分の聖性の衣を身にまとわせ、私たちの頭に永遠の栄光の冠を」(参照 :バルク5,1-2)被せるのです。 ミサ祭儀を通して神は「いのちのパンで」私たちを養い、そして救いの力と確実さを私たちに与えます。 感謝のうちにこの貴重な恵みをいただきましょう。 アーメン。
待降節第3主日 C年 2015年12月13日 グイノ・ジェラール神父
ゼファニヤ3,14-18 フィリピ4,4-7 ルカ3,10-18
喜びは待降節第3日曜日の特徴です。 「皆さん、主において喜びなさい。 重ねて言います。 喜びなさい」(フィリピ4,4)と聖パウロは勧めています。 また、預言者ゼファニヤは、この喜びを全面的に現すように私たちを誘います。 「娘シオンよ、喜び叫べ。 イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。 娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ」(ゼファニヤ3,14)と。
預言者ゼファニヤの時代に、「シオンの娘」と呼ばれているものは、エルサレムにある新しい地区のことです。 そこはサマリアの町が破壊された後に逃げて来た人々の避難所となっている場所でした。 大惨事のせいでとても貧しくなった人々のために、預言者ゼファニヤは次のように告げ知らせます。 「もはや、災いを恐れることはない」と。 確かに、主のうちに信仰をおく貧しい人々は何も恐れることがありません。 彼らを忠実に守る神は喜びと平和を保障なさるのです。 「主はお前の中におられる。 お前はもはや、災いを恐れることはない」とゼファニヤは確信します。 その証拠に、神はご自分の慈しみで守られた人々の喜びと楽しみを分かち合いますから。 「主はお前のゆえに喜び楽しみ、愛によってお前を新たにし、お前の喜びの歌をもって踊り楽しまれる」(参照:ゼファニヤ3,14-17)。 今日、預言者ゼファニヤの言葉がどうしても私たちの心に深く沁み込まなければなりません。 なぜなら、喜びのうちに私たちが慈しみの特別聖年を生きるために、この言葉は大きな助けになるからです。
洗礼者ヨハネの言葉も、神の慈しみのうちに生きる私たちの喜びを具体化するための助けになります。 聖霊に満たされた洗礼者ヨハネは、終わりのない幸せの条件を教えています。 それは分かち合い、人への尊敬、正義、非暴の行為、すべての人に示す慈しみです。 また洗礼者ヨハネは、イエスが「聖霊と火で洗礼を授けること」を私たちに打ち明けます。 イエスが啓示する神の慈しみは、“救う愛の火”であり、“聖とする命の力”であります。 聖霊と火のうちに洗礼を受けたので、私たちは自分の周りに「神の子」、または「愛と慈しみの父の子供」と呼ばれる喜びと栄光を輝かすべきです。 神の似姿に創られ、信仰によってキリストと一致させている私たちは、世界の人々に慈しみ深い神のみ顔を現さなければなりません。
イエスの手と心と体になるために選ばれている私たちは、神と共に楽しみ喜ぶようにと、この待降節の時が思い起こさせます。 喜びはキリスト者の明白的な特徴です。 「主において常に喜びなさい。 重ねて言います。 喜びなさい。 あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。 主はすぐ近くにおられます」と聖パウロは私たちに願っています。 主はすぐ近くにおられるだけではなく、主は「勝利を与えられる勇士として神は私たちのただ中におられ」(ゼファニヤ3,17)、そして「世の終わりまで毎日私たちと共におられます」(マタイ28,20)。 ですから、神と共に生きる喜びを隠すことが出来ません。
そのためにキリスト者はすべての状況において、たとえ一番苦しい状況でさえ、心の奥底に平和を保つことが出来るのです。 聖霊の力のうちにイエスの愛の火によって燃え上がる私たちは、父なる神が私たちに与える栄光と喜びの証人となりましょう。 更に、近いうちに私たちの間にお生まれになるイエスを歓迎し、喜びで囲むように聖母マリアと共に正しい準備をしましょう。 アーメン。
待降節第4主日 C年 2015年12月20日 グイノ・ジェラール神父
ミカ5,1-4 ヘブライ10,5-10 ルカ1,39-45
世界中でいつか有名になるユダヤのベツレヘムという小さな村について、預言者ミカは語っています。 いつか全ての時代の人々が、「幸せ」と呼ぶ、まだ知られていないマリアという自分の従姉について、エリザベトは褒め称えます。 父なる神に従うために、私たちの人間性にご自分の神性を隠して来られたキリストの謙遜について聖パウロは語ります。 このようにキリストの従順と謙遜によって、素朴で目立たない秘められたものは高く上げられています。 それはこの世を救うために来られる神の愛と慈しみを現わすためです。
今日の全ての朗読は、私たちに良い知らせを宣べ伝えます。 それは全ての人に与えられる救いです。 「不妊の女」と呼ばれている従姉のエリザベトの幸せを分かち合うために、マリアは急ぎました。 しかし、聖霊はマリアの内に神が行われている神秘を悟る喜びを、エリザベトと彼女の胎内の子に与えることによって、マリアに先立ちます。 実際、この二人の女に行われていることは、非常に驚くべきことなので、二人はあっと言う間に聖霊と聖霊が与える喜びで溢れるほど満たされているのです。 マリアとエリザベトは、神から受けた命の賜物を互いに分かち合っています。 自分たちの体の内で神秘的に行われていることを大いに喜びます。 マリアとエリザベトは、自分たちに子供を生む恵みを与えた神に感謝します。 なぜなら、一人は年老いた不妊の女であり、もう一人は男を知らない童貞の女ですから。
「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と聖霊がエリザベトの声を借りて声高らかに叫びます。 このようにマリアは幸せを神ご自身からいただくのです。 この幸せは他の幸せに先立ちます。つまり、心の貧しい人、義に飢え渇く人、平和を実現する人、柔和で憐れみ深い人、正義のために迫害されている人、また悲しむ人の幸せです。 神の言葉を自分のうちに受け留めることによって、信仰が神の賜物として与えられているからです。 他の恵みは、その後に与えられます。
「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じる」なら私たちは何と幸せでしょう。 ご自分の救いと贖いの業を私たちのうちに実現するために、神が生きたみ言葉としてイエス・キリストを私たちに与えたことを信じるなら、私たちは何と幸いな者でしょう。 もし、私たちを新たにするために教会が与える慈しみの特別聖年を喜びのうちに歓迎するなら、私たちは何と幸せでしょう。 信仰と共に私たちは心の貧しい人の幸せを受け、柔和で慈しみ深い人として平和を築く人となり、そして悲しみの時も迫害される時も心の喜びを保つことが出来るのです。 確かに私たちは、信仰によって私たちを救い、安全に守る神と親密に結ばれています。
ご存じのように、今、世界中のキリスト者の状態は、とても不安定です。 迫害、背教、若者の欠如、召し出しの不足などが目立ちます。 色んな国において嘲りと侮辱を受けずに、自分の信仰を証しすることは難しくなりました。 消費社会の中でお金と目先の利益と楽しみが、より頼む価値になったので、私たちにとって神との関係のある信仰生活を築くのは至難の業です。
そのためにこの難しい時代において、私たちは母マリアを自分の信仰の模範としなければなりません。 神における揺るぎない信仰と信頼なしには、私たちが人生の試練を乗り越えることは到底無理です。 また、教会が提案している慈しみの特別聖年の恵みなしには、私たちがイエスの誕生を深い愛と喜びのうちに祝うことも到底無理です。 信仰だけが真の愛と喜びを与え、そして「この喜びを私たちから奪い去るものはありません」(参照:ヨハネ16,22)。 アーメン。
主の降誕(夜半)C年 2015年12月24日 グイノ・ジェラール神父
イザヤ 9,1-6 テトス 2,11-14 ルカ 2,1-14
クリスマスおめでとうございます。 ようこそ、よくいらっしゃいました。 皆様はこの夜に、一緒に主の誕生を祝うためにおいでになったことを感謝します。 「闇の中を歩む民は、大いなる光を見ました」と預言者イザヤは宣言します。 「すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました」と聖パウロは説明します。 「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げます。 今日、あなたがたのために救い主がお生まれになりました」と主の天使は啓示します。 救い主であり、贖い主として、イエスを私たちに与えることによって、神は私たちを愛することを証明なさいます。 同時に神のいつくしみの神秘に与かり、深く味わうように私たちは招かれています。
「神は私たちを愛する」ということを発見するのがクリスマスです。 生まれることによって、私たちと同じようになろうと、私たちと等しい者になることを決めた神を歓迎するのが、まさにクリスマスです。 「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子イエスは」私たちの命が、ご自分の命と同じ値打ちがあることを教えています。 「私たちが神になるように、神は人間になった」と断言する聖アタナタシオス、聖アウグスティヌス、聖イレネオ、ナジアンスの聖グレゴリオ、ニッセの聖グレゴリオという教会の教父たちは、同じことを言っているのです。 確かに、神ご自身の命は人間の命と同じように尊く、神的な命です。 従って、人は神と親しい関係を結べば結ぶほど、神の栄光を益々讃えます。 宇宙万物が創られる前に、私たちに示された神の愛が(参照:エフェソ1,4)すべてを新たにするからです。 私たちが永遠に三位一体の神の命を分かち合うために、神は愛によって私たちを創られました。 神はその愛をキリストのうちに現そうとします。 父として、永遠の愛で神はキリストのうちに私たちを愛しておられます。 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3,16)とイエス自身が啓示します。
「インマヌエル」というイエスの他の名は、「神は私たちと共におられる」(マタイ1,23)を意味します。 「わたしの目にあなたは値高く、貴く、わたしはあなたを愛します」(イザヤ43,4)と神は繰り返し、繰り返し絶えず私たちに打ち明けます。 そして特に、福音の宣教と教会の秘跡の恵みによって 神はそれを証明し続けます。 「世の終わりまで、毎日、神は私たちと共におられます」(参照:マタイ28,20)。
また、神は世の終わりまで、毎日私たちの内におられます。もし神の命の言葉であるイエスを受け入れ、聖体拝領によってキリストの御体と御血を受けるならば、確かに信仰によって聖霊の交わりのうちに、既に私たちがキリストと共に一つの体、一つの心、一つの霊となりました。 その恵みによって私たちが死んでから、必ず神の内で私たちが神となるのです。 「実に、神の国はあなたがたのうちにある」(ルカ17,21)とイエスは断言しました。 確かに神は私たちの心の奥底におられます。 ですから、神の愛といつくしみを証しする、祈りと信仰の生活によって自分たちの内にある神の現存を味わうことを学びましょう。
実際、私たちの間にある、愛で満たされている神の現存を味わい楽しむために、私たちは今夜ここに集まりました。 ですから、クリスマスのプレゼントとして、神に自分たちの全生涯を捧げましょう。 つまり、自分自身を裁かずに、ありのままの自分を、そして私たちの喜びと悲しみ、成功と失敗、希望と絶望を神に捧げましょう。 神の目には私たちは値高く、貴い者であり、そして神が私たちを愛していることを信じましょう。 預言者イザヤが宣言したように、神の愛は「暗闇を追い出す大きな光」です。 また聖パウロが教えたように、神の愛は「救いの恵み」であり、この恵みこそ、キリストによって、キリストのうちに、キリストと共に私たちを聖化し、神と親密に私たちを結び合わせます。
そうであれば、ベツレヘムの天使たちの声に合わせて、私たちも感謝を込めて、心から歌いましょう。 「天のいと高きところには神に栄光、地には善意の人に平和あれ」。 アーメン。
四旬節第1主日C年 2016年2月14日 グイノ・ジェラール神父
申命記 26,4-10 ローマ 10,8-13 ルカ 4,1-13
毎年、四旬節の最初の日曜日には、イエスが受けた誘惑の話を私たちは聞いています。 昔、モーセは群衆を避けて神の山に登りました。 孤独の中で、四十日間断食した後、神の現存で満たされていたモーセは、神から十戒を記した律法の石板を受けました(申命記9,11)。 同様に、神から自分の使命を受けるために洗礼を受けた後、イエスは群衆を避け、荒れ野に退き、四十日間断食しました。 孤独の中で神の現存で満たされていたイエスは体の飢えを覚えました。 その時サタンは、イエスを誘惑に陥らせるために来ましたが、それは失敗に終わりました。 確かに、神が自分を養うものとする人に対して、サタンは無力になります。 同じように神の言葉を自分の人生の土台とする人に対しても、サタンは何も出来ません。 神の内に自分の希望と弱さを置いた人に対して、サタンは力がありません。
福音の中で聖ルカが書き記した三つの誘惑は、すべての人がいつか出会う誘惑です。 まず、問題のない楽な生活、つまり苦労せずにすべてにおいて成功する生き方の誘惑です。 次に、すべての人を支配する権力、それは好きなように自由に何でもできる力の誘惑です。 最後に、自分が必要不可欠で代わるものはないと思い込んでいる人、欠かせない人だと信じさせる高慢の誘惑です。 この三つの誘惑に反して、イエスは神に対する完全な従順を表しました。 何故なら、イエスの使命とは何よりも先ず神に従う使命です。 「わたしが来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである」(ヨハネ4,34、ヨハネ6,38)と、たびたびイエスは繰り返し言います。
父なる神の御心を行うようにと、今始まったばかりの四旬節は強く私たちを誘います。 それは私たちが天罰を恐れて行うためではなく、むしろ愛によって行うためです。 神に従順を示すことは、自分の上に神のいつくしみを引き寄せることであり、また誘惑に対して強くなることです。 四旬節の期間は、霊的な戦いの時です。 昔からこの戦いのために必要な武器は、祈り、断食、施し、隣人愛です。 この戦いに打ち勝つために、特に神の言葉を揺るぎない支えとしなければなりません。 神がイエスに言われたように、神は私たち一人ひとりにも言われます。 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者です」(ルカ3,22)と。 来るべきあらゆる誘惑に対して、この神の言葉が私たちの確信と力となりますように。
さらに、父なる神の現存と親しさで自分を養うために、私たちは孤独になって、静かな場所に退き祈る時間を見つけることが必要です。 孤独と沈黙のうちに、ご自分の心を私たちに開き、ご自分の愛と命を与えようとされる父なる神に耳を傾けましょう。 四旬節の間に、神と隣人に近寄るために必要な良い選びをしなければなりません。 神と人々から私たちを遠ざける利己主義、自閉、言い訳する誘惑から解放されるために、いつくしみの特別聖年は適切な効果のある助けです。
ですから、聖霊の教え導きによって、自分の利益だけを求める傾向、すべてを自分の方に引き寄せる態度を四旬節の間に直しましょう。 自分たちの望みを実現するために、神や人を利用する高慢を捨てましょう。 私たちに目先の利益や単に自分の助けとなるだけの深さのない友情の関係や偽りの絆を結ぶこともやめましょう。 イエスと父なる神がいつも行っておられるように、自分の利益や有利な物事を求めずに無償で愛しましょう。 そうすれば、今年の四旬節は神の光と力で満たされる泉になるに違いありません。 またこの四旬節は神に栄光と感謝を与える「永遠の救いの道」になるでしょう。 アーメン。
四旬節第2主日C年 2016年2月21日 グイノ・ジェラール神父
創世記 15,5-12,17-18 フィリピ 3,17-4,1 ルカ 9,28-36
死なずに神の栄光を見ることはできません。 そのために神が人々にご自分の栄光を現す時に、いつも人は恐怖と不思議な深い眠りに陥ります。 そしてまた、神の光り輝く現存を隠す暗黒の雲が現れます。 アブラハムに降りて来たこの不思議な深い眠りは、神がエバをお造りになった時にアダムを襲った同じ不思議な眠りです。 またこの同じ不思議な深い眠りは、山の上でキリストに伴った弟子たちを襲った眠りと同じ眠りです。 しかし、人が目覚める時、新しい朝が来て、新しい創造が始まります。 この世では神の栄光をはっきりと見ることができなくても、必ずいつか私たちはそれをありのままに見るでしょう。 なぜなら、神の栄光が私たち自身の栄光になるからです。
「私たちの本国は天にあります。 そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。 キリストは、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」と聖パウロは私たちに打ち明けています。 「救い主としてイエスを待ち望んでいる」ということは、「私たちは自分たちのうちにではなく、ただキリストのうちにだけ揺るぎない信頼をおく」という意味です。 そういう訳で、イエスの弟子たちを覆う暗い雲の中に、強く願う父なる神の声が聞こえます。 「かれはわたしの子、選ばれた者。 彼に聞け」と。 つまり、私たちがキリストに揺るぎない信頼を示すように神は願っています。 真心から湧き出る祈りとみ言葉の黙想が神との出会いを可能とし、同時に私たちをあらゆる面で変容させます。 私たちの人生の堅固な土台がキリスト自身とキリストの言葉であれば、日ごとに私たちは自分たちの完全な変化に近づくのです。
確かにイエスは祈っていた時に変容されました。 私たちも愛と信仰を持って祈るたびに変容されています。 しかし、ただ神と天使たちだけが喜びをもって私たちに起こった変化をご覧になります。 ご自分の言葉と私たちの祈りが、私たちの内に実現することが暫く隠されているのは、私たちがそれを見て高慢な人にならないためです。 心から捧げられた祈りは、本当に栄光の神との親密な出会いです。 私たちが祈るたびに「あなたは私の子です」、「わたしの目にあなたは値高く、貴く、わたしはあなたを愛しています」(参照:イザヤ43,4)と父なる神は私たちに打ち明けるのです。 ですから、聖ペトロの言葉を借りて、賢く神に心から答えましょう。 「主よ、あなたと共にここにいるのは、すばらしいことです」と。
私たちの内にある光り輝く神秘を発見するために、今日私たちは召されています。 イエスと同じように、私たちも父なる神のみ顔を示さなければなりません。 ですから「眠りから目覚めましょう」(参照:ローマ13,11)、私たちの心を満たす神の栄光がはっきりと現れますように、私たちが持っている罪と幻想の雲を追い払いましょう。 アーメン。
四旬節第3主日 C年 2016年2月28日 グイノ・ジェラール神父
出エジプト3,1-8、10、13-15 1コリント10,1-6、10-12 ルカ13,1-9
ピラトのガリラヤ人への虐殺事件の知らせを聞いたイエスの反応は、とても驚くべきものです。 イエスの説明によれば、人々の死を引き寄せる不幸の理由は彼らの罪のせいです。 つまり、ガリラヤの虐殺は彼らの罪が引き寄せた天罰です。 また18人の死を起こしたシロアムの塔が倒れた話をしたのは、その人たちが回心しなかったからだとイエスは説明しました。 しかし、このような災いは人間の責任と結びつけることができるでしょうか。 イエスの話によると、人々の死と彼らの責任が結びついているのです。 「その人たちが他のどの人々よりも罪深い者だったからだ、と思うのか」とイエスは問いかけます。 返事を待たずに、イエスは皆が行うべき回心について話し続けます。 「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と。
私たちが簡単に結びつける罪と罰、回心のない状態と不幸という考えを、イエスは全く持っていません。 そのために、聖書の専門家や説教者はイエスが言われたことを説明するのに非常に困っているのです。 不幸がある時、人は必ず責任者を探し求めることを私たちはよく知っています。 人は時々その責任者を見つけます。 しかし、見つからない時、人は神ご自身をその不幸の責任者とします。 例として試練の中にいた、あるキリスト者は自分の指導司祭に次のことを打ち明けました。 「主の祈りを唱える時、私は決して『あなたのみ旨が行われますように』ということは言えません。 私を苦しめる不幸が神の望まれることだと私は決して言いたくないからです」と。
確かに私たちが恐れることを神が望まれるなら、あるいは私たちに起こるすべての出来事が神の意思を表すなら、私の希望に反することを神の望まれることとして、受け入れることができるでしょうか。 その答えは、「いいえ」です。 神は良い神であり、いつくしみで満たされている神であることを絶対に私たちは忘れてはいけません。 世の初めから神は罪人の味方であり、罪人を裁くものではありません。 その証拠として、神は罪人のためにご自分の命を与えました。 また、神は復讐する方でもなく、ご自分と反する者を厳しく罰する方でもありません。 人々の罪を背負うことによって、神がその人々を赦します。 しかし、同時に盲目的にこの世を傷つける悪に対して、ご自分と共に戦うために神は私たちが回心するように強く願っています。 というのは、回心することは神の国を来させることです。 この神の国は、皆が分かち合う平和、安定、喜びと幸せの国です。
罪人に対する神の忍耐は、神の弱さを示すものではありません。 むしろ、それは絶えず繰り返された回心への強い呼びかけです。 一度も実を結ばなかったいちじくの木のたとえ話は、神の忍耐がいつくしみの泉であることをはっきりと示すのです。 聖ペトロは神の考えられない忍耐をこのように説明します。 「主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。 そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」(2ペトロ3,9)と。
イエスが悔い改めと回心をするように私たちを誘う理由は、豊かな実を結ぶことによって、私たちがこの世界から不幸と災いを遠ざけるためです。 ですから実を結ばないいちじくの木のようになってはいけません。 私たちは、回心といつくしみと分かち合いの実を実らせることによって、神に栄光を与える生き生きとした良い木になりましょう。 昔、神は奴隷であったヘブライ人を解放するために、モーセにご自分を啓示しました。 神はそのヘブライ人の苦悩の叫びに非常に感動しました。 そこでこの難しく、時間のかかる解放を実現するために、神はモーセの心の内に希望と勇気を与えてくださいました。 この世界を破壊し全人類を苦しめる物事を見て、私たちも神と同じように非常に感動して正しい回心を目指しましょう。 ですから、世界の幸せのために悔い改めることによって、神に知恵と勇気の恵みを願いましょう。 アーメン。
四旬節第4主日 2016年3月6日 グイノ・ジェラール神父
ヨシュア5,10-12 2コリント5,17-24 ルカ15,1-3,11-42
「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。 これらはすべて神から出ることです」と聖パウロは宣言します。 四十年間にわたって、砂漠の中で天から落ちてきたマナによって神はご自分の民を養いました。 これからは、神は約束された地の実りで養います。 古いものは過ぎ去り、ヨシュアの指導の下でイスラエルの民の新しい生き方が生じ始めました。
キリストの福音を述べ伝えることによって、キリストを信じた人々が信仰を自由に生きることができるように、聖パウロはユダヤ教の共同体から完全に離れました。 それにより聖パウロにとって正しい人々と罪びとを隔てていた壁は消え去りました。 キリストが十字架で流された血によって、すべての人が神と和解されたからです。 「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」(2コリント5,17)そして「もはや罪に支配され、罪の奴隷にならないように、私たちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのです」(参照:ローマ6,6)と聖パウロは私たちに納得させます。
回心し赦された罪人に対するイエスのたとえ話、またイエスが人々に快く与える罪の赦しは、神のいつくしみの神秘を深く生きるように私たちを誘います。 人を裁くことや人を避けること、また人に対して偏見を持つことはとても簡単です。 しかし、イエスは私たちが差別する心を捨てて、神の国に入るように招きます。 神の国では元気な人、病気の人、体の不自由な人、異邦人、罪びと、正しい人、評判のよい人、盗人など、どんな人であっても、皆が神からよい絆を受けます。 「隣人を自分のように愛すること」(ルカ10,27)、「神がわたしたちを愛したように、互いに愛し合うこと」(ヨハネ15,12)は、私たちがキリストの弟子であることをはっきり示すことです。 同時に私たちは、神の愛する子供たちですから、いつくしみのみ顔とその手であることを示すのです。
病人や罪びとに近寄り、出会うために、イエスは宗教的に不潔と決められた物や人と接することを一度も恐れませんでした。 むしろ、イエスは不潔な者と言われた人の家に入り、一緒に食事をしました。 イエスの振る舞いはファリザイ派の人々を非常に憤慨させる躓きとなるので、神が望まれる正しさは何であるかについて、イエスは彼らの目を開こうとします。 「もし『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪のない人たちをとがめなかったであろう」(マタイ12,7-8)と言いながら、イエスは自分が神のいつくしみ深いみ顔であることを啓示します。 聖パウロは、イエスが目に見えない父なる神の目に見える姿である(参照:コロサイ1,15)と説明しています。
いつくしみの特別聖年の期間に、私たちの眼差しを変えるために、人を裁くことや人を避けることをやめる努力をしましょう。 回心することは自分たちの心の窓を開けることです。 神の光がその開かれた心を完全に照らしますように。 聖霊に導かれるままに、キリストのように考え、話し、行い、愛することができますように。 キリストによって私たちは神と和解させられた新しい者となったので、また「父なる神のものは全部私たちのもの」(ルカ15,31)ですから、賢く、懸命にそれらを利用しましょう。 そうすれば周りにいる人々にとって、きっと私たちは神のいつくしみ深いみ顔を現し、それと同時にイエスの心を現すことができるでしょう。 アーメン。
四旬節第5主日C年 2016年3月13日 グイノ・ジェラール神父
イザヤ43,16-21 フィリピ3,8-14 ヨハネ8,1-11
私たちは法律なしに生きることができません。 人々が平和のうちに暮らすことができるように法律はある行動を許し、または、禁止します。 善と悪が法律によってはっきりと規定されないとき、人は好きなようにするのです。 つまり、他人の法律に対抗する自分の法律をつくるのです。 その結果、社会は崩壊します。 そのために神の眼差しのもとでイスラエルの民が平和のうちに暮らすことができるように、モーセはその民に神から貰った律法を与えました。 ご存知のように、モーセの律法によれば、姦通の罪は死によって罰せられるべきです。
イエスを罠に陥れるために、律法学者とファリサイ派の人々は姦通の現場で捕えられた女を利用します。 もしイエスが、彼女がしたことはそんなに悪くないと訴えるなら、彼は社会生活を土台とする規律を変えることになり、また神がモーセを通して言われたことに対立することになります。 結局、もしイエスが神の望まれることに反するなら、イエスを神に対する侮辱の罪で責めることになります。
しかし、イエスは何も言いませんでした。 そこで律法学者とファリサイ派の人々がイエスに自分の意見をはっきりと出すようにと強制します。 「あなたは神の法律に従いますか、それとも国民の中で不和の種をまき散らしてからその破滅を望んでいるのですか。 答えなさい」とイエスに詰め寄るのです。 直ぐイエスは立ち上がって神の権威といつくしみを持って彼らに答えます。 「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と、そう答えたイエスはモーセの律法が定めることを認めると同時に女の罪はなかったものとはしません。 人間が行った行いは場合によっては、同じ結果をもたらさないことをイエスは認めますが、人が何をしてもいいと言う考え方を退けます。
イエスは、はっきりと罪について語ります。 なぜなら神の法律に対して全ての人は有罪です。 イエスにとって律法は人のよい振る舞いを教えますが、同時にそれを守らない人を罪びとと定めます。 ローマ人への手紙の中で罪びとをとがめ罰する律法と、それとは反対に罪びとを義とし救う神の恵みについて強調します。 イエスは全ての法律を超える方で、彼が来たのは裁くためではなく救うためです(参照:ヨハネ3,17、ヨハネ12,47)。
姦通の女の前でイエスが示した態度と言われた言葉は、私たちがお互いの審判者にならないことを助け、同時に罪のうちに私たちを兄弟姉妹とします。 確かに、私たちの共同体の中にいる長老たちを始め、私たちはみんな罪びとです。 この事実は、この世で人生が与える体験とは、罪を犯す体験であることを示しています。ですから、年配者 の方が若い人よりもその体験の結果を伝えることが出来るのです。 自分が罪びとだと認める人は、他の人を罪びとだと定めないはずです。 残念なことに私たちはお互いに悪口を言いあいます。 神の前で、ただ一人だけが私たちを責めることが出来ます。 それは、罪のないイエス・キリストだけです。 そういう訳で姦通の女に言われたように、イエスは私たち一人ひとりに次のように断言します。 「わたしもあなたを罪に定めない。 行きなさい。 これからは、もう罪を犯してはならない」と。
罪を犯さないことは、ただ悪を行わないと言うことだけではなく、誰であろうと罪に定めないことでもあります。 キリストの恵みによって贖われた私たちは、人を批判することや裁く権威は持っていません。 もし、人を裁くとしたら、あっという間に私たちを救ったイエスの前に置かれて、その秤でイエスは私たちを裁きます(参照:マルコ4,24)。 イエスは私たちにいつくしみと限りのない赦し方の道を示しました。 いつくしみの特別聖年の恵みによって、神が憐れみ深いように私たちも憐れみ深い者となりますように。 また、聖母マリアと共に罪びとのために祈り、執り成す恵みも受けますように、更になによりも先ず、イエスのように私たちも柔和で謙遜な者となりましょう(参照:マタイ11,29)。 アーメン。
枝の主日C年 2016年3月20日 グイノ・ジェラール神父
イザヤ 50,4-7 フィリピ 2,6-11 ルカ 22,14-23,56
聖ルカによる福音書を読む人は、彼が紹介するすべての人物がとても急いでいることに気がつきます。 なぜなら、これらの人物は自分たちに与えられた恵みを逃すことをしたくないからです。 たとえば、おとめマリアは急いで出かけてエリザベトの所に向かって行きました。 洗礼者ヨハネは、早めに、母の胎内からキリストの訪れをエリザベトに教えます。 大人になった彼は、「メシアは既に来ている」と言って、人々が急いで改心し、悔い改めるように皆に迫っています。 また、アンデレ、ペトロ、ヤコブとヨハネはイエスの呼びかけに応えるために、直ぐに網も船も家族も捨てて、急いでイエスに従います。 同様に、マタイ、ザアカイ、エリコの盲人であるバルティマイ、罪の女と他の人々はイエスと出会い、その後、自分の生き方を正しくしようと良い選びをするために急いでいます。
イエスご自身もいつも至るところを急いで歩きます。 イエスは大勢の人に神の救いのメッセージを伝えたいからです。 イエスは教えながら、病気の人を癒し、悪霊を追い出し、人々に神の救いをもたらします。 同時に、ご自分の十字架上の死と復活によって、早く神の国の門を開きたいという強い希望をはっきり示します。 ご自分の使命を全うするために エルサレムへ早く行きたいことをたびたびイエスは弟子たちに打ち明けました。 「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に望んでいました」と。
カルヴァリオの出来事のすぐ後、まだ暗い内にキリストに従った婦人たちは急いで墓へ行きます。 しかし、ある天使の命令に従って、彼女たちはイエスの復活の出来事を伝えるために今度は弟子たちの所に早く走って行きます。 復活されたイエスと出会った後、キリストの言葉で燃えている心で、エマオの弟子たちも急いでエルサレムに戻りました。 聖パウロは 熱心に福音を伝えようと、さまざまな国と海を渡って急ぎます。 コリントの信徒への手紙の中で、聖パウロは次のように書きました「キリストの愛がわたしたちを駆り立てています」(2コリント5,14)と。 確かに、私たちを愛するからこそ、私たちのために神がご自分の命を捧げたことを理解した人は、もはやのんびりすることができません。 聖霊が私たちを神のために、あるいは福音宣教のために、早めにそして喜びの内に何かをするために駆り立てているのですから。
「枝の主日」の祝い日が、全人類を救うために急ぐ神の喜びを既に私たちに提案しています。 急いでこの喜びを掴みましょう。 私たち一人ひとりが、イエスと共に親しく、そしてより深くこの聖週間を生きるために、この喜びが大きな助けになりますように。 また、イエスのご受難の物語を聞いて黙想することによって、近づいている復活の喜びを私たちが受け止めることができますように。 いつくしみの特別聖年のさまざまな恵みを受けながら、イエスのすぐそばに生きる大切さを感じて、イエスから離れないように努力しましょう。 私たちを赦し、救い、聖化する神に、聖霊に導かれて絶えず感謝しましょう。 アーメン。
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